マイヒストリー④

目次

第三章


第四章

~挫折・気づき~


手術前、健康に生まれてきたのにどうして傷をつけなければいけないのか?

なんんとか回避できないのか?と血眼になり方法を探す。

願掛け、食べるもの、飲むもの、できることを探し回り、

全部をやってくれていた両親。

改めて親ってすごいんだな…と思った。


そしてしんどかった。


生まれつきの病気を持っていた知人が言ったことがある。

「自分のために言ってくれてるのは分かるけど、

物心つく前から、これもあれもダメ、

体に響くから、あなたの体のためだから、

なんでもやってあげる、あなたは体を大事…って。

正直…めちゃくちゃ辛いんだよ。」


私は

「そりゃ親だもん、当たり前じゃん。

ありがたいことを何言ってんの~。」

なんて返事した過去を思い出し、猛省した。


辛い人の気持ち、理解できもしなかったのに、

苦しい気持ちに寄り添うこともせず。知ったかぶり。

ひどいな私…こんな気持ちだったんだ…

後に本人に謝罪した。

彼は「わかった?」とだけ寂しそうに笑った。

彼は理解してほしくて言ったんじゃなかった。

理解してもらえるなんて最初から思っていなかった。

ただ誰かに聞いて受け止めてほしかっただけだった。

それを、知っていたから私を責めなかった。

自分の弱さを、人の痛みを知っている人は

人を攻撃しない強さを持っているんだと知った。



私は。


「仕事しなくてもいい、ずっと家にいればいい、

毎日顔が見れればいい、元気で生きていればいい。」


親のその言葉たちも致し方ないと思って生活を続けていた。

でもそれが私の中で一つの決断を下していた。

ずっと持っていたたった一つの変わらない夢

「留学する」

それを実行するのは絶対的に出来ないということ。

これだけ心配させて、その言葉の中にいて。


癌が再発。

私は再手術を受けたー


それはもう。

言えなかった。

今までも散々反対されていたそれを改めて。言えなかった。


好きな映画のビデオを何百回も再生、一時停止を繰り返し、

ルーズリーフに英語と和訳を手書きで書いていた。

それを見ながら映画を聞いた。

学生の時のアメリカ研修のローンを支払いながら、

英会話の教室に通って仕事をしていた。

当時SNSはなく、留学ジャーナルを何年も買いためていた。


さすがにルーズリーフは捨てられなかったけれど。

ローンの支払いを一気に済ませ、

あちこちマーカーしてあった留学ジャーナルを

実行するまでに時間がかかったが、

久しぶりにワァワァ泣きながら全冊捨てた。

英会話を辞めた。

一人になりたかった。

貯金を全部使って一人長崎に旅行へ行った。


全然足りなかったけど、貯めていたお金を、

調べていた資料、本も全て。無くしたかった。

無理の事実を作り、できないんだと。

心の底から諦めたかった。


英語が勉強したいだけではなかった。

でも、英語なら日本でも勉強できる!

そう思って気持ちを切り替えた。

しんどかった。

「挫折」

数行のこれは、諦めきるのに何ヵ月も要した。


そこまでしても、親の傍から離れないこと。

決して望んでいたとは逆立ちしても言えない…でも

それが長年の夢よりも私の中で完全に優位だった。


同じ夢を叶えた人が、映画のセリフ書きの話を知ったら

「そんなことやってたの?」と笑った。

そう。そんなこと。現地で生活することから見たら、

何の意味も、英語の上達に役立つものでもない、ただの時間の無駄だった。

経験に勝るものは、そんな地味なことや英会話スクールにはないのだ。


「私は親が泣いてもその夢を叶えた。行った。

諦めたのはどんな理由をつけようと自分でしょ?

本当にやりたかったのなら、親が泣いても行ったよね。自分で諦めたんじゃん。」


その通りだった。親のせいにしたのかもしれない。

それでもその言葉は本当に辛く傷に刺さった。


夢を諦めた「劣等感」「空虚感」「敗北感」

多分私は一生それを持って生きていくのだろう。

自分史を作った時、つらかったことの一番が従妹の死。

次にこれが来た。そんな出来事だった。



学生の頃から長らくお世話になり、歯の勉強をするのも楽しかった。

歯科助手の資格も取ったけれども、やっぱりやりたいことがやりたいと、

申し出て、バイトから3年続けた歯科医院を辞め、

旅行から戻り。

念願だった、空港の国際線で接客の仕事に就けることになった。

同時にスポーツクラブに籍を置き、子供の器械体操の教室で

インストラクターを始めた。

以前の様に人が周りで亡くなることもめっきりなくなり、

好きなことに囲まれ。ある程度、楽しく生きていた。

自分の思うように生き始めていた。

空港では何百人という人たちと仕事した。

新鮮だった。

学生時代のクラスメイトも何人もいて。

一緒に仕事できることもあり、

英語も接客もできないなりに毎日が楽しかった。


そして、色んな会社のたくさんの人と仲良くなっていくうちに、

あることに気づき始めていた。


みんな毎日笑顔。

でも聞けば、

みんながみんな色んな経験をして色んな涙を流して

それでも毎日笑顔で生きていた。

傷つかずに生きている人なんていないことに気づいた。


そっか…そうやってみんな苦しいことを経験して

それでも何もない顔して笑顔で生きてる。

人ってそうやって生きていくものなんだ。

みんな一緒なんだ…

生きていくってそういうことなんだ…

だれも命を諦めたりして生きていないんだ。



退院した後、入院中に読んだ般若心経の解読本の著者の講演会に出かけた。

沢山の話を聞き、全て内容をまとめたレポートを今も本に挟んで持っている。

その中の一つ、書かなくても忘れ難い話が心に残っていた。


「はいどうぞ」とコップにお酒を出されたらあなたは飲みますよね。

では、そのコップが。

尿と便が入っていて。それをピカピカになるまで洗い切ったコップです。

「はいどうぞ」と出されたらあなたはお酒を、飲みますか?


飲まないと思われた方。

あなたは手に尿や便がついたこと、ないですか?

子供の頃や、あかちゃんのお世話。

誰でも一度はありますよね?

手を切りましたか?

その手、使っていますよね?

手は洗えばいい。


コップは…

洗いきっても汚いのですか?


「汚い」と思うのは自分の心。

同じ事実にどんな色を付けるのかは、自分の心。

あなたの心の目次第で、それが飲めるものにも、飲めないものにもなるのです。

事実を知らなかったら、ただのお酒、あなたは飲むでしょう。


そういうことか…


私が辛いと思ったことから、諦めるばかりだった命。

諦めるようになったのは、悲しく受け入れられず逃げたという事実。

辛いと思ったことを、生きていることへの感謝へ変えることができるのは

他の誰でもない、私の心だった。


あの当時ではできなかった。

でも、時は自然に訪れる時は訪れ、流れる時は流れ。

受け入れられる時が来て、自然とその法話に足が向き耳が聞いた。

心に取り入れることができた。


辛いと思った過去を、辛く後ろ向きなことと見るのは私自身。

辛いと思った過去を、それがあったから強く生きられる経験だったという

過去と見るのも私。


一つの変わらない事実をどんな風に見、捉え、感じ、

どんな色に、どんな形にしていくのかは、自分次第なんだと。

法話もそうだが、傷を負いその傷を強さに変えて笑っていた

温かい沢山のたちに出会い、気づかせてもらった。


心の傷は、本や知識、教養に癒されるのではなく、

「人」に助けられるということを知った。

だから人を大切にしたくなった。


今までのたくさんのことも。

そんな素敵な人たちと仕事ができる環境に身を置くことになったのも。

すべてが「縁」ということであれば

私に起きた全ては必然だったのだと思う。


私の経験も、出会った人とのご縁も全て必然だとしたら。

そのご縁からいただいたものを無駄にしたくない。

変えられない過去を、諦めた夢の喪失感を、失った命を。

「辛いだけ」のものにしたくない。


同じ事実も思い方を変えれば過去は変わるとは、このことだったのか。


色んな合点があっていく。


自分の色々を「経験してよかった」に変えたい。

そうやって生きたい。

挫折も病気も。彼女の命も、そう思いたい。

生きづらさ、生きにくさを感じている人がいたら、

経験が少しでも役に立ったらどんなにいいか。


生きなきゃいけない。

辛くても嬉しくても。

生きてる、私の命は生かされている。

それならどう生きる?どう生きていく?


重要なのは心の持ち方

「生き方」「命の使い方」だ。


素敵な人たちに会い、みんなに助けられて、

いつの間にかそう思うようになっていた。





今のところの人生の中で、人生観を変えた上位3つは

21歳までで終わっています。


従妹の死

夢をあきらめたこと


第五章からはその後から現在へ続きます。

今日もお読みいただきありがとうございます。

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